2021年 1月6日
さて、円福寺で思いのほか時間を取られてしまったので、
さくさく進んでいこうと思います。
円福寺を西に行き、突き当りの道を左に、
つまり南に曲がります。
ここからは基本的にささしまライブ駅に、
さくさくと引き返していくことになります。
さくさくと行きたいところなんですが、
南に曲がるとすぐにあくの強い、
キャラの濃い建物が見つかってしまいます。
トタンが打ち付けられてしまっていますが、
もともとは何かのお店のようですね。
看板の文字がかすれて読みにくくなっています。
塗料、セメント、モノサシ巻尺(モノサシ???前回参照)、
水道パイプ、ラワン材、電気器具、家庭金物、
建築金物、作業工具、大工道具、左官道具などなど。
昔はこういう店を金物屋さんと言っていたような気がします。
今はもう、金物屋さんも目にしませんね。
ホームセンターに集約されてしまいました。
その隣の園芸店。こちらはまだ営業しているようです。
園芸店というよりは、
もうこのお店ごと自然そのものといった感じです。
やがて店の外側や内側においてある植物が生い茂り、
屋根の上まで覆いつくし、伸びた根が店を包み込み、
この園芸店は埋もれてしまうかもしれません。
参考画像です。念のため。
園芸店の向かいの道を東に入ります。
この圧倒的な錆びたトタン壁の家が目印です。
近代化=鉄化ではあったのでしょうが、
もはやこの錆びた鉄のように、
近代もすっかり錆びついています。
近代的であった建物もそうですが、
近代的であった社会システムも、
もはや錆びついて、遺産クラスです。
道の突き当りを左に曲がると、
松の湯という銭湯があります。
このような銭湯もある種の近代遺産ですね。
日本の近代化とともに発展した銭湯も、
近代化の終わりとともに衰退していきます。
かろうじて残っている松の湯のような銭湯も、
やがてなくなってしまうでしょう。
今こそ世界遺産に、
日本の銭湯文化を登録する時ではないでしょうか。
世界遺産、日本の近代銭湯文化。
ついでに富士山のペンキ絵と、
ビン入りの明治パンピーと、そのふたを開ける
ピンみたいなやつも追加で登録お願いします。
青空に向かって伸びていく銭湯の煙突。
このような景色が失われてしまったら、
またひとつぶらぶら歩きの楽しみも
なくなってしまうことでしょう。
ところでこの煙突、
よく見ると途中から口径が細くなっています。
途中まではコンクリート製の、よくある銭湯の煙突です。
そのよくある煙突の途中にアタッチメントが付いて、
金属製の細い煙突がつながっています。
金属製の煙突が比較的新しいように見えることから、
もともとは一般的な銭湯のような、コンクリート製の長い煙突があり、
それがなんらかの原因で半分になり、
その後金属製の煙突が取り付けられたものと思われます。
コンクリート製の煙突にいったい何があったのでしょうか。
ある日落雷がおきて煙突がまっ二つに割れたとか、
煙突の先が詰まっているのに火を焚いて暴発したとか、
石川五右衛門に斬鉄剣で切られたか、
馬場チョップで折られたか。
その時に周りの家は大丈夫だったのでしょうか?
松の湯の近くに、金山神社があります。
案内板によると、御祭神は金山毘古神です。
金山毘古神は金山彦命ともいい、
鉱山の神、鍛冶の神です。
もともとは少し南の、
今は線路になっている位置にあったそうですが、
その場所は鉄道用地として買収され、
今の位置に移ったそうです。
本殿の脇に、大きな石が二つ無造作に置いてあります。
石の横にあった案内板によりますと、
この石は名古屋城の石垣用の石だそうです。
名古屋城を築城の際にこの辺りを流れていた
笈瀬川を使って石材を運んだ。
この二つの石はその際に残されたもので、
笈瀬川から出土した。
ここにも笈瀬川の痕跡が残されていました。
笈瀬川はかっぱの住む川だけでなく、
かつて石垣用の大きな石を運ぶほどの川幅と
水深があったということになります。
金山神社のすぐ目の前は、
道路を挟んで近鉄電車、あおなみ線、JRの線路になっています。
その向こうに黄色に塗られた大きな鉄橋が見えます。
向野橋という跨線橋です。
遠目に見ても、昔ながらのトラス構造の鉄橋です。
トラス構造とは三角形を組み合わせていくことにより、
安定した強度を保つ構造です。
近代化の過程で、多くの鉄道橋や道路橋に使われてきています。
コルカタのハウラー橋です。
船の運航を妨げないように、橋桁はありません。
橋桁のないトラス鉄橋としては、世界最長クラスではないでしょうか。
これは有名なカンチャナブリーの戦場にかける橋ですね。
旧日本軍が捕虜に造らせた橋の復元です。
ハノイのロンビエン橋です。
奥に見えるトラス構造が美しいです。
フランンス植民地時代に造られ、
ベトナム戦争時には何度もアメリカ軍に空爆を受けましたが、
そのたびに修復されています。
ルアンパバーンの郊外にかかる橋です。
強度の関係で、車の通行は禁止のようですね。
カンボジアの南部、カンポットのオールドブリッジです。
これはフランス植民地時代のものだそうです。
トラス構造は鉄ではなく、おそらくは鉄筋コンクリートでしょうか。
こちらも老朽化のためか、車の通行は禁止です。
このようにトラス鉄橋は世界各地に造られています。
時代を経たトラス鉄橋は、近代化の記憶を今に伝えるとともに、
今もなお、その場所の風景にアクセントを加え続けています。
それでは向野橋を渡ってみたいと思います。
近鉄の線路も跨いでいきますので、ちょうど近鉄電車が通りました。
階段を上って、鉄橋への取り付け道路に出ます。
スロープ状に緩やかに上ってくるこの道路は、
かつて車が通ることができました。
車道跨線橋として笹島地区の北部と南部をつないでいましたが、
現在では歩行者と自転車のみです。
その理由はここでも橋の老朽化だそうです。
近代化の中で作られたトラス鉄橋は、
あちこちで老朽化を迎えているようです。
ここからささしまライブや名古屋駅前の
高層タワーの見晴らしがいいです。
見晴らしがいいということは、
その間に高い建物がほとんどないということですね。
ここに来るまでにぶらぶらと歩いてきた地域を
俯瞰することができます。
それにしても本当に、背の低い、瓦屋根の民家が
密集してますね。
まるで民家の海に向こうに、摩天楼の島がそびえ立っているかのようです。
こんなイメージです。
向野橋の案内板がありました。
向野橋は明治32年(1899年)に
今のJR山陰線の前身である京都鉄道がアメリカより輸入し、
京都から舞鶴への鉄道を敷く計画の中で、
京都の保津川に架けられた鉄道橋です。
その後、昭和5年(1930年)に、向野橋は跨線橋として
この場所に移設されました。
向野橋はもともと京都にあったこともそうですが、
明治時代にアメリカから輸入されたということに驚きます。
日本の近代化は、まさに明治時代に欧米の技術、製品、
システムを輸入するところから始まったのです。
向野橋はまさに日本の近代化の生きた証人なのです。
初めは川の上を渡る鉄道橋として、
次は鉄道の上を渡る車道跨線橋として、
そして今は車両通行止めの人道橋として、
向野橋は日本の近代化の変遷を眺めてきたのです。
現存する19世紀のトラス橋では日本で最大。
向野橋もまた日本の近代遺産なのです。
次回はその遺産の上を渡ります。