コロナ下のぶらぶら旅 ささしまライブ駅その6 円福寺で自分のモノサシについて問う 木彫りの象と珍しい名前 結局モノサシがあってもまあいいか

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2021年 1月4日

あおなみ線ささしまライブ駅から始まった今回のBST。
ただ今、背の低い、密集した家屋群の真っただ中にいます。
もしも上空から眺めることができるのなら、
赤茶色や灰色の屋根瓦の大海原の中に、
よそ者のくたびれたおっさんが、
ぽつんと浮いているように見えるかもしれません。


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本日のスタート地点は円福寺です。
円福寺はその大海原のど真ん中に位置しています。

立派な山門の脇に掲示板があります。


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「自分のモノサシで問うのではなく
自分のモノサシを問う」

人は何かを判断する時に、
自分なりの価値基準で判断します。

これはいい、あれは悪い。
これは好き、あれは嫌い。
これをやって欲しい、あれはやめて欲しい。
あの芸能人、むかつく。
あの投稿、イラつく。

人が生きていれば、
24時間365日、寝ている間を除けば、
判断の連続です。
その時に基準になるのが、
自分なりの価値基準です。

これをモノサシといいます。

このモノサシはいつでも働いていて、
そのほとんどは無意識で、勝手に働いています。
自分では判断したかどうかも気づかないうちに、
判断されています。


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例えば今目の前に猫が現れたとします。

「あ、かわいい」
と思うかもしれません。
この「あ、かわいい」がすでに判断です。

考えてみれば、猫そのものはかわいくもかわいくなくもありません。
ただのもふもふの動物です。
そのもふもふの動物をかわいいと思うということは、
そこに自分なりの価値基準が働いているということです。

その証拠に、猫アレルギーのある人の前に猫が現れたら、
「うわ、やばい、息苦しい」
と思うかもしれません。

もちろんこれもその人なりの価値基準です。
猫そのものとは何の関係もありません。

自分のモノサシで問う、とは、
自分の価値基準で物事を捉えて判断するということです。

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山門から円福寺の中に入ります。
立派な蔵があります。

円福寺では毎月いろいろな行事をやっているようです。
おつとめのお稽古、
健康体操、
くらしの習字美文字教室、
心と体のほぐし塾などなど。

先ほどの「モノサシ」も
心と体のほぐし塾で選出された言葉だそうです。


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本堂脇の建物の玄関前に、木彫りの象がいます。
よくみると象の右下に、小さい木彫りのお地蔵さんもいます。

お寺に象はとても似合いますね。

お寺に象が似合う、
というのも「モノサシ」の一つです。
仏教の発祥の地はインドであり、
インドには象がたくさん生息しています。


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※インド クンバコーナム

インドでは寺院に、参拝者を祝福するための
象がいることもあります。
こんな感じのモノサシで判断しています。

お寺というものは日本のわびさびの世界であり、
仏教は日本の伝統宗教である、
というモノサシから見れば、
なんでお寺に象が????となるでしょう。


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木彫りの象の前の柱に、象がもう一匹います。

こちらは木彫りではなく、革細工のようにも見えます。
インドのお土産なのか、
ひょっとしたら、お寺の方の手作りかもしれません。

そう思って玄関の扉わきを見ると、
「木佛寺」という表札が見えます。
こちらは木彫りのようです。しかもかなり手の込んだ。
このお寺の方はcraftspersonなのかもしれません。

それにしてもこちらの表札「木佛寺」とはなんでしょうか。
確かここは円福寺のはずです。
円福寺の中にまた別のお寺があるのでしょうか。
かつては別々のお寺であったものが、
区画整理などで一か所にまとめられてしまったとか。

この時僕は勝手に、「木佛寺」は円福寺の方がやっている、
工芸品のギャラリーなんだと思っていました。
そう考えると玄関にある木彫りの象や、革細工の象、
木彫りの小さなお地蔵さんや、手の込んだ表札も納得がいきます。
入口の戸をガラガラと開けると、
中にはもっと作品が展示されているのかもしれません。

ところがあとからしらべてみると、どうもこの「木佛寺」は
お寺の方の名字のようです。
大変珍しい名前ですね。
「木佛寺」の表札はギャラリーの名前ではなく、
まさに木佛寺さんの家ということだったのです。

ここにも僕の勝手なモノサシによる勘違いがありました。


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円福寺の周りには古い感じの家がたくさん残っています。
ただぶらぶらと歩いているだけでも楽しくなってきます。


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これもまた古くて大きな家ですね。

ところで後半の言葉
「自分のモノサシを問う」ですが、
これはいったいどういう意味でしょうか。

自分のモノサシとは、こうして古い家並みを歩いていると
「楽しい」とか、
「古く」て「大きな」といった無意識の判断をしている、
自分なりの価値基準のことでした。

ではそれを問うとは?

それは常になにかに対して自分が判断を下したり、
評価を下したり、感想を述べたり、助言をしたり、
忠告をしたり、手助けしたり、相手にとってよかれと思ったり、
ほめたり、けなしたり、糾弾したりするときに、
「それは自分のモノサシなのではないのか?」
と問うことです。

今自分がやったこと、言ったこと、考えたこと、相手に強要したことが、
真実ではなく、正しいわけではなく、正義でもなく、
たんに自分の価値基準を当てはめ、押し付けただけではないのか?

そのような言動を導き出している自分の価値基準とはなんなのか?
いったい自分の持っているモノサシとはなんなのか?

モノサシを問うとは、自分が無意識のうちに下している判断、
評価、批判などを意識に上げてみることにほかなりません。


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それではぶらぶら旅を先に進めていきましょう。


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円福寺を過ぎて、さらに西に向かいます。
あいかわらず古い感じの家屋が連なっています。


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昔からのかまぼこ屋さんがありますね。
中を少しのぞいたら、まだやってました。


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この喫茶店がある通りまででたら、
これ以上西に行くのはおしまいです。

ではこの喫茶店で一服。

とはいきませんが、
BSTもここで一服です。
ここからはまた別の道をぶらぶらしながら、
ささしまライブ駅まで引き返していきます。

さてBSTもここから引き返していきますが、
モノサシへの問いもここから引き返します。

自分のモノサシで問うていたことに気が付き、
自分のモノサシそのものを問うことになる。
では自分のモノサシを問うて行った先には、
一体何があるのでしょうか?

結論から言えば、
特に何にもありません。
今までと特に何も変わりません。
それはモノサシそのものの成り立ちによります。


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そもそもモノサシとはなんでしょうか?
モノサシは人間に生まれながらに備わっているものです。
生まれたての赤ちゃんも暑い寒い、
快不快などのモノサシを持っていると言えます。

また、病弱でヒョロナガに生まれた人は、
その形質に応じたモノサシを獲得していきます。
反面、健康的でガタイがよく生まれた人は、
そのようなモノサシを持っていきます。

まずはどのような形質、性質を持って生まれてくるかが、
モノサシの基本的な部分を形作ります。
モノサシの基礎部分は遺伝的、生来的なものということです。


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その後、親や年上の兄弟、学校の先生、身近な大人、
テレビやラジオ、雑誌や本、成功や失敗の体験、
危険の回避などで身に着けたモノサシが増えていきます。

これらはいわば後天的なモノサシです。
このモノサシは子供のころは否応なしに周囲の大人たちから
受け入れさせられます。
長じてからは様々な経験、出会い、刺激などを通じて、
ほとんど無意識に新たなモノサシを取り込んでいきます。

こうして先天的なモノサシに、後天的なモノサシが加わり、
その人その人オリジナルのモノサシができあがります。
遺伝的要素もその後の体験も人それぞれですから、
100人いたら100個のモノサシがあるというわけです。


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このモノサシを使って、人間は生きていきます。
モノサシがなければ何も判断できませんし、
白と黒の区別もつけることができません。
この食べ物をとるとどうなるのか?
毒なのか薬なのか?
この場所に近づくと危険なのかどうなのか?
自分が今やろうとしていることは、正しいのか?

人間が生きていくためにはモノサシが必要です。
必要なものだからこそ、生まれながらに備わっているのです。
自分のモノサシは、自分を快適にするために、
自分がもっと楽しくなるために、自分が損をしないために、
自分が病気にならないために、自分がもっと幸せになるために、
そして自分がなんとしても生き延びるために、
日々働いてくれているありがたい存在なのです。


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自分のモノサシを問うていくと、
なぜ自分が何かを判断したり、区別したり、評価したり、
人のことを批判したり、他人の行動を許せなかったりするかが
わかってきます。
それは自分が生き延びるためなのです。

同時に、ほかの人もまた、その人独自のモノサシによって、
自分がなんとか生き延びようとしているのだ、
ということがわかってきます。

自分と違う意見を言う人、自分と違う行動をとる人、
一見自分に攻撃してくるように思える人、
自分を批判してくるように思える人。
それらの人もまた、自分が生き残ろうとしてそうしているのです。

そこには正しい間違っている、良い悪い、正義不正義、
公平不公平などはありません。
100人100通りのモノサシの中に、
絶対的に正しいモノサシはありません。
自分が正しく、相手が間違っていることもなく、
相手が正しく、自分が間違っていることもありません。


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自分のモノサシを問うていくと、
モノサシの正体がはっきりとしてきます。
モノサシの正体が見えてくると、
いつでもモノサシが働いていること、
たった今自分が行った行動にもモノサシが働いていること、
たった今自分が言ってしまった一言にもモノサシが働いていること、
むかついて書き込んでしまったSNSのコメントにも
モノサシが働いていることが見えてきます。

モノサシが働いた瞬間に、
これはモノサシだと見破ることができるようになります。

ただし見破ることができたからと言って、
モノサシの働きをなくしたり、
モノサシを正しいものにしようとしたり、
ましてモノサシそのものをなくしたりすることはできません。

モノサシはほとんど無意識に働きますし、
絶対的に正しいモノサシはありません。
そもそもモノサシがないと人間は生きていけません。

これからも判断は起こり、区別は起こり、評価は起こります。
自分と違うことをしている人を批判しようとしたり、
自分と違う考えを持っている人を排除しようとたり、
自分の方が正しいと感じたり、
良かれと思って他人に強要しようとしたりします。

自分のモノサシを問うた先に何もないとは、
そういうことです。
問うてみたところで、
モノサシの働きはあり続けるということです。
その働きはよくなったり、
正しくなったりしません。

ですが、自分のモノサシを問うことによって、
モノサシを見破ることによって、
自分のモノサシが測った結果をあまり気にしなくなる
ということはあります。


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モノサシには正しいモノサシも間違ったモノサシもなく、
ただ単に自分のモノサシとは違うモノサシを持った
人がいるだけだとわかったら、
自分の判断も他人の判断も、本当は適当で、
自分が人を批判したり、人が自分を誹謗中傷するのも、
自分も含めたそれぞれ自身が、
なんとか生き延びようと必死なんだなあと、
そんな風に思えるかもしれません。
そんな風に思ったら、大概の事はまあいいかと
思えるかもしれません。

まあいいかと思ったら、何か判断が起きても、
まあいいかとなります。
何か批判されても、まあいいかとなります。

モノサシは働き続けますが、まあいいかとなり、
モノサシへの問いそのものが消えていくかもしれません。

そんな適当な!
というモノサシが働くかもしれませんが、
それもまあいいかです。

そんな感じで適当に、BSTは続きます。



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